イタにち日記。

イタリアでの生活、外から考える日本のこと、感じたことをつれづれ書いています。   何よりも数年後の自分自身がこの感覚を忘れないように。

ミラノ版林間学校に考えさせられるこの国の未来。

気づけば11月も半分が過ぎてしまった。

新学期が始まってからというもの、

体調が万全でない状態が1か月以上も続き、

声はおっさんみたいになり、

ただでさえ酷いイタリア語が泣きたいような状態になり、

熱が出るわけではないがゆえに

どうすることもなく、ただひたすらしんどい毎日。

今も午後になると毎日頭痛、

毎晩しっかり寝ていて、これ以上寝るのは罪悪感極まりない。

そんなこんなで街はクリスマスに向けてまっしぐら。

気づけば2020年になってそうな勢いだ。

 

前振りが長過ぎました。

 

そんなこんなしている間に、

私の子どもが日本でいうところの林間学校へ

行く機会が突然(本当にこの国らしい)訪れた。

 

ミラノ市がミラノ近郊にいくつか施設を持っていて、

各学校が申し込む林間学校、イタリア名はScuola Natura。

日本のように「5年生で必ず行うイベント」てなものではなく

申し込んでからの抽選のようだ。

しかも、学校丸ごとで申し込むと、確約してもらえるらしく

それが故に、上の学年に引きずられて小1の入学早々

このお泊りに行かなければいけない。なんて学校もあるらしい。

 

宿泊日数は3泊4日、4泊5日、5泊6日など様々。

私の子どものクラスが抽選に当たった(?)時点で

日数は決められていて、選択余地はなかった。

 

うちは以前から行きたがっていたし、

なんの躊躇もなく「行けることになって良かったね!!」と

喜んでいたけれど、子どもの成長具合は様々なので

中には最後まで行かせるか悩んでいた親もいて、

この林間学校に行く前の保護者説明会でもすごい議論になった。

と言っても、この説明会は出発の6日前に開催されたので、

そんな議論は本当に今さら次郎ってやつなのだけど。

 

親から離れてみんなで宿泊するのはこちらも変わらず、

でもその中で、イタリアらしいなぁと思ったことをいくつか書いておきたい。

 

まず、現地の施設にアクティビティを全てオーガナイズしてくれる人がいる。

先生はもちろん24時間子どもといるけれど、

現地で何をするか、就寝前のプログラム、

子どもたちの就寝している部屋に付き添うのも全て現地任せでよい。

 

つくづく、日本の教師って本当に本当に大変だなと思わせる

イタリア事情を垣間見た気分だ。

 

そして、参加・不参加は個人判断でよく、

うちの子どものクラスでも、家族旅行から途中参加した子もいた。

また、早く起きてしまったりした時、先生の部屋にあるテレビを

数名で観ていたり・・・と全てがゆるっとしていて

私は日本の規律ばかりよりも、こういう方が好みだ。

 

最後に、最終日には正装してパーティーを行う。

ディスコ状態で踊る。

日本にはない文化そのものだ。

 

誰一人ケガすることもなく、

子ども・先生そして現地ガイドの人までが涙で別れを惜しみ、

楽しい貴重な経験をして帰ってきた。

高学年でなくてもこんな経験ができるなんて

なんて素敵なことなのだろうと改めて思う。

 

がしかし、

別の学校に子どもが通う友人とこの話をしていたら、

友人の子どものクラスは先生の判断で

このScuola Naturaには行かないことになった。

それはあまりにも生活態度の悪い生徒がいるという理由でだ。

 

そもそもの情報で恐縮ながら、

イタリアは小1から小5までクラス替えがなければ

担任も原則持ち上がり。

指導要領のようなものは存在するが、

テキストや年内の授業計画を決めるのも担任。

担任の先生の裁量がとてつもなく大きい。

 

なので、他のクラスがScuola Naturaに行こうが

この先生は申し込まないと判断したのだろう。

もちろん、行くからには先生には引率する責任があるし、

学校から〇〇くんと〇〇くんは来ないでください。とは言えない。

 

という話を聞いてふと思った。

 

この生活態度の悪い子どもがイタリア人なのか、移民なのかは分からない。

しかし、日に日に移民が増えているこの社会で、

きっと近い将来、今まで子どもたちが経験できていた素晴らしい体験を

辞めさせざるを得ないことがあるのではないか。

 

ここに住む日本人は移民とは違うし、

そもそも私たちの文化や教育水準からして、

郷に入りやすい環境で育っていると思う。

 

規律の厳しい宗教もなければ、食べ物も柔軟だ。

 

でも、イスラム圏の子どもが多いクラスだったらどうだろうか。

日常の生活を共にするのは簡単ではないだろう。

 

だからと言って、イタリア人だけの社会だった時にできた

このような行事が、今後同じイタリア人の子どもたちには

その機会が得られないことが増えるとすると、やるせない。

移民問題は理想論だけでは語ってはいけないのだとつくづく思った。

 

誰にでも生きる権利はある。

どの子どもにも教育を受ける権利はある。

 

移民の子どもだけの学校を作ることは恐らく難しくないし、

彼らも閉鎖的な社会で生きているところを見ると、

それを望んでいるかもしれない。

 

でもそれでいいかはまた別の話。

 

日本もそう遠くない将来、同じ課題にぶつかるのだろう。